膵癌の死亡率は、肺および大腸癌などとともに近年増加の傾向を示しています。我が国の年次別人口10万対膵癌死亡率をみると1950年、1970年および1995年度において、男性は0.5、5.0および14.7、女性では0.5、3.5、11.1と、両者ともに最近では1950年当時の20倍を超える増加を示し、1996年には全癌死亡数の6.1%を占め第5位なってます。一般に男性に多く、北日本に多い傾向があります。
膵癌は特徴的な自覚症状はなく、その上、どんな人が膵がんになりやすいのかもあまりわかっていません。このような理由で、胃がんや大腸がんのように早期のうちに見つかるということはほとんどありません。膵周囲脂肪組織、神経叢、大血管に容易に浸潤し、腫瘍として診断された時にはすでに進行癌であることが多いきわめて難治性の癌であることが特徴です。
診断は超音波検査あるいは症状や血液検査のデータを基に行い、膵臓や胆管などに病気のある可能性がある場合には、X線CT ・MRIやERCP(内視鏡的逆行性胆管膵管造影)などの検査を行います。最近では、MRIを利用してERCPと類似した情報を得ることができ、患者さんの負担が小さいMRCPという技術が普及しました。
一般的に膵癌の治療法は、膵がんの治療には主なものとして手術療法・放射線療法・化学療法(抗がん剤)の3つがあります。
膵癌に対して行われる手術療法は、膵癌が存在する場所によって異なります。膵頭部(十二指腸に近い部分)に癌がある場合は膵頭十二指腸切除術という方法で膵癌を切除します。膵臓の頭部から体部の一部にかけてを胃の一部・十二指腸・小腸の一部・胆嚢などとともに切除します。また、膵体尾部(十二指腸から遠い部分)に癌がある場合は膵体尾部切除術という方法で切除します。膵臓の体部・尾部と脾臓を切除します。手術療法の短所としては、長時間の全身麻酔を必要とし、体力のない患者さんには負担が大きく、また手術後の合併症の危険性があります。しかし、膵癌の手術療法は世界の中でも日本が進歩しており、現在では安全に癌細胞を切除できる治療として確立されています。また切除術ができなかった場合、食物あるいは胆汁の通り道を確保するためのバイパス術が行われることがあります。
放射線療法は、放射線を照射し癌細胞の増殖を抑えようというものです。しかし従来の X 線照射では十分な治療効果を得ることができませんでした。その理由として、(1)膵癌は腺癌であり、通常の放射線に対して感受性が低い可能性があること、および(2)周囲の消化管、肝、腎、脊髄など比較的耐容線量が低い重要臓器と、消化管、胆管、残存膵の手術吻合部を照射野から外すことが困難なため、十分量の放射線を病巣に集中させることができなかったこと、などが考えられています。現時点では、放射線療法は主に除痛の目的で行われています。
膵癌に関する化学療法は5-FUを中心に施行されることが多いですが、奏効率は20%前後です。
最近では gemcitabine が有効であるという報告も見られますが、確実な治療効果を有する抗癌剤はいまだ示されていません。
従来の放射線療法や化学療法、または両者の併用では膵癌に対して大きな効果を期待することはできないのが現状です。これまで膵癌の治療は各施設の医師がこれまでの治療報告や経験に基づいて患者さん一人一人にとって最も効果的で、安全な副作用の少ない方法を組み合わせたりしながら治療をしています。一般に進行が比較的早い膵癌では手術療法が、高度に進行した場合は放射線療法や化学療法が選択されています。
放医研では、手術を前提とした術前炭素イオン線治療(4週間・16回照射)の膵癌に対するフェイズI/IIトライアルを2000年4月より開始しました。膵癌に対する有効な治療法のない現在、画期的な治療法として期待されています。

FDG-PET検査所見
(重粒子医科学センター病院 山田 滋)
| エッセイ ぱるす No.2 |
「い・な・げ」
文字あそび
○…平安期(1020年)菅原孝標女は「更級日記」の中で、「まどろまじ今宵ならではいつか見ん黒戸の浜の秋の夜の月」と詠んだ。「黒戸の浜」はかつての黒砂稲毛海岸(現在の国道14号線)である。「黒戸」や「黒砂」の辺りを歩いてもピンとこない。そこで隣りの地名と一緒に「黒砂・登戸(のぶと)」で読むと、『砂が真っ黒になるほどコブに覆われた水辺』と読める。かつて、小学校の遠足で来た稲毛海岸の見渡す限りの遠浅の海、一面の海草の強い匂いにむせ返る砂浜、遠い記憶が蘇る。
○…この和歌から千数百年ほど遡る縄文時代、東京湾の海岸線は2kmほど内陸部にフィヨルド状に入り込み、下総台地は入り江多き地形であった。「稲毛町」はその入り江の河口部に位置する。河口から入り江を遡ると左に「こてはし」、中央に「宮野木」、右に「園生」へと分岐し、入り江の奥まった岸辺に人々は居住した。今、貝塚遺跡がその3か所周辺にある。集落は、一世帯およそ8人家族15世帯ほどであったらしい。当研究所の敷地にも竪穴式住居跡があったので、同様の集落があったのであろう。これらの貝塚からの貝は同じ種類であることから、人々は稲毛海岸まで船で出て漁撈をしたのであろうと郷土史にある。
○…やがて海水は入り江から退き、入り江は湿地帯になり、稲作が行われるようになった。その河口部をいつからか人々は「いなげ」と呼んだ。どのような意味があったのであろう。郷土誌にその記述を私はまだ見出していない。そこで、アイヌ語読みを試みると「イ・ナ・ケ」=『それ・なる・ところ』となる。「イ」は代名詞で、皆が了解している重要なものを指す。多くは狩猟や漁撈での「収穫」を意味したが、転じて「神」をも意味した。富士山の見えるその地で「まつりごと」が行われたことを伺わせる地名である。この語源にはどこか響くものがある。特に、富士山信仰に由来する浅間神社がそこに位置する経験が合点できそうだからである。
○…浅間神社がこの地に移設された平安期800年代、関東一円に約1500もの浅間神社が富士山本宮から分霊奉祀された。そして各地の「まつりごと」が一斉に浅間神社フォーマットになったものと思われる。その流れの中で、「イ・ナ・ケ」からも従来の機能が離れ、その分地名が軽くなった。そして、無邪気な「あて名」がなされた。そのように私は空想している。陽に光る稲穂のイメージ、豊穣への祈り、そしてどこか明るいメルヘンっぽい語感、「稲毛」。いい響きでもある。
(宇宙放射線防護プロジェクト 山口 寛)
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